中山道の歩き方:当時の面影を感じさせる街並み。さまざまな様相を見せてくれる信濃の東側、軽井沢宿から和田宿までの十一宿「東信州中山道」

軽井沢宿

沓掛宿

追分宿

小田井宿

岩村田宿

塩名田宿

八幡宿

望月宿

茂田井 間の宿

芦田宿

長久保宿

和田宿

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宿場紹介

軽井沢宿

江戸から数えて18番目の軽井沢宿は長野県側の入口となります。碓氷峠の頂上は手前の坂本宿から13kmあり、道中は険しい山道を登る難所でした。 峠の頂上は関東平野や富士山を見渡すことができ、その景色は当時の旅人達も眺めていたことでしょう。
軽井沢宿は現在旧軽井沢銀座とよばれ、当時の宿場の面影は薄くなりつつも今でも大勢のお客で賑わう観光地となっています。

沓掛宿

19番目の宿、沓掛宿は現在地名を中軽井沢に変えています。
長谷川伸の小説に「沓掛時次郎」という作品がありますが、長倉公園にある沓掛時次郎碑には「千両万両枉げない意地も􁲉人情搦めば弱くなる浅間三筋の煙の下で男 沓掛時次郎」と書かれています。沓掛宿の東側、湯川に沿った一部分に浅間山が左手に見える場所があります。江戸からの道中、常に右側に見える浅間山がここだけ左側に見えたため、旅人の間で話題になりました。

追分宿

追分宿は中山道の宿場では最も標高が高くおよそ千メートルに位置しています。江戸時代、軽井沢宿・沓掛宿・追分宿の3つの宿場を「浅間根腰の三宿」と呼び、特に北国街道の分岐点に位置する追分宿は、参勤交代の大名や善光寺参詣の旅人などで大変にぎわいました。現在行われている「しなの追分馬子唄道中」は当時の旅人の姿を再現して盛り上がるお祭りです。
追分宿の江戸口にある追分宿郷土館には、当時追分宿で使用していた品々や茶屋の一部を復元したコーナーなどが展示されています。

小田井宿

小田井宿は、江戸板橋宿から数えて21番目の宿場町で、40里14町、京へ95里8丁の位置にあります。
江戸側の追分宿、京側の岩村田宿にはさまれ、旅籠はわずか5軒ほどの静かな宿場町だったといいます。
その規模から参勤交代の大名は隣の追分宿に宿をとり、小田井宿には姫君など女性が多く休泊したことから「姫の宿」とも呼ばれています。

岩村田宿

室町時代大井氏は東信一帯と西上州に広大な領地を持ち、その居館のあった岩村田は民家六千軒を有し、交易盛んな信濃第一の都市となっていました。しかし文明十六年(一四八四)村上軍の戦火に焼き尽くされ廃墟となってしまったといいます。
岩村田は佐久の要衝の地として戦国時代武田氏の支配下で復活してきます。本格的に復興するのは江戸時代になってからで、中山道の宿駅と決まり、新しい岩村田宿として発足し、発展してきました。元禄十六年(一七〇三)に内藤氏の岩村田藩が成立しますが、城下町が作られたのは幕末元治元年(一八六四)のことです。藤が城の築城とともに字上ノ城(現岩村田小学校内外)に作られました。

塩名田宿

塩名田宿は千曲川の東岸に作られた川沿いの宿場町です。
「近郷無類の荒れ川」と呼ばれる千曲川の氾濫は、しばしば旅人の足を止めたため宿として重要な役割を果たしていました。今も格子戸が残る街並みには旧屋号看板が下げられています。
河原に残る一つ穴の空いた大きな石「船つなぎ石」が、いまでも橋の上を渡る旅人を眺めています。

八幡宿

八幡宿は、周辺の八幡・蓬田(よもぎだ)・桑山地域の住民が移住してつくられました。千曲川を渡り、わずか27町の距離に八幡宿があります。両宿場の間を千曲川が流れているため、宿場間の距離がきわめて短くなっています。また、八幡宿の東側はのちに市川五郎兵衛によって開発された「五郎兵衛新田村」の下原であり、強粘土質の水田に適した土壌でもあります。 文久元年(1861)、中山道を下ってきた皇女和宮の一行は、11月6日に和田宿に宿泊し、翌7日に芦田宿で昼休みをし、八幡宿へ宿泊しています。代々、本陣・問屋を務めた小松家には、和宮から下賜された折り紙なども伝えられています。

八幡宿

望月は宿場とともに清和天皇(876年)の頃からの駒の里であり、八月の満月の日に朝廷へ名馬を納めたことが望月の地名の由来と言われています。紀貫之など多くの歌人に詠まれ、古くから親しまれている場所でもあります。
本陣・問屋の門構えや玄関付きの180坪の建物は、現在「望月歴史民俗資料館」として使われています。

茂田井 間の宿

茂田井村は「間の宿」と呼ばれ、旅籠を持たない休息処でした。これは幕府による本宿保護のために出した禁令によって、本宿以外での宿泊を取り締まったためです。 元禄二年(1689)名主市郎右衛門が酒造りをはじめ、現在は大澤酒造と武重本家酒造の2軒の造り酒屋があり、武重本家酒造の通りに面した蔵の敷地には若山牧水の歌碑があります。 いまでも古い街並みがそのまま残る茂田井間の宿は、旅人を魅了し続けています。

芦田宿

中山道26番目の芦田宿は、芦田(依田)氏の浪人、岩間忠助と土屋右京野左衛門が、神官今井曽五郎とともに、慶長二年(1597年)に蓼科神社に納めた文書(願文)により、新駅の設立を願い出たことが伺えます。 このことから北佐久地域では最古の宿場とも云われています。
江戸時代、徳川幕府の植樹政策により街道沿いに松や杉が植えられ、笠取峠のマツ並木の景観は往時の中山道を偲ばせてくれます。時代の変遷とともに、建物は老朽化が進み、保存が困難となり、時には火災により焼失したものもありますが、その中で現在にその形を残し伝えるものに寛政12(1800)年に改築させた本陣があります。

長久保宿

長久保宿は、当初現在の位置より西下の依田川沿いに設けられました。しかし、大洪水によって流失したため、寛永8年(1631)段丘上のこの地に移り、本陣・問屋を中心に東西方向に「堅町」を形成し、後に宿場が賑わうにつれ、南北方向に「横町」を形成していったため、L字型の町並みになっています。
長久保宿は最大で43軒の旅籠があり、中山道信濃二十六宿の中では、塩尻宿に次ぐ数を誇りました。

和田宿

中山道の最高地点にして、最大の難所と言われた和田峠(標高約1600m)を控えた和田宿は、隣の下諏訪宿まで5里18町(約22km)、峠との標高差は約800mほどもあったため、逗留する諸大名らの行列や旅人も多く、長久保宿と同様に、信濃二十六宿のなかでは規模の大きい宿場町でした。
幕末の文久元年(1861)3月、本陣ほか宿場の大半が火災で焼失してしまいますが、この年の11月には皇女和宮の御下向が控えていたことから、幕府より二千両ほど拝借し、街並みを復興させ、この大行列を無事に迎えました。